No.22 藤枝宿

品川から数えて二十二番目の宿場が「藤枝宿」です。まずは上の広重の浮世絵ですが、藤枝宿の問屋場の前で荷物を引き継ぐ様子を描枯れています。当時はこのように宿場から宿場へ人や荷物をリレー方式で継ぎ送ることを行なっていたみたいです。この事を「人馬継立」と言ったようです。

江戸時代には本陣2軒、旅籠37軒、人口4,425人、宿の町並み長さ約980メートルの宿場町だったみたいです。

歴代の城主が江戸幕府の要職を務めた田中城の城下町として、またの産地であった相良に至る田沼街道への分岐点として、最盛期には旅籠が37軒あり、商業地としても栄えた。

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田中城

藤枝宿の特徴は徳川家康が鷹狩りのために度々訪れた田中城の存在だと思います。藤枝宿に近い場所にあり本丸跡には小学校が建てられ、その姿を見ることはできませんが城主の別荘が置かれていた下屋敷の跡地に「史跡田中城下屋敷」があり、田中城にゆかりのある建造物や庭園などが復元されています。

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藤枝宿・問屋場跡

浮世絵に描かれている場所がこちら
現在は交番になっていましたが、ちゃんと看板が出ています。
ここで広重の絵ような事が行われていたんでしょうかね〜

この問屋場跡があるのは藤枝宿の上伝馬という地区になります。上伝馬には他にも本陣跡もあります。ちょうど中心あたりだったんでしょうか。本陣跡は今は何もないですが💦

勝草橋と志太一里塚

藤枝宿の西にあるのが勝草橋(かちくさばし)です。勝草橋は明治8年にはじめて作られて、昭和7に鉄筋コンクリートの橋になり、2003年に今の姿になったみたいです。藤枝市のちょっとしたシンボルですね〜

その勝草橋のすぐ傍にあるのが「志太一里塚」になります。一里塚とは江戸の日本橋を起点に4km単位で築かれた塚の事です。こちらの一里塚はちょうど50番目。つまり東京から500kmの地点なのです。

東海道藤枝宿 標柱

勝草橋は西側ですが、こちらは藤枝宿の東にある「東海道藤枝宿 標柱」になります。
ちょうど向かいには成田山の直末寺院である新護寺があります。

藤枝市白子町の名前の由来

さて、藤枝宿には白子町という地区が今でもあります。実は名前の由来には、あの徳川家康が関わっていると言われています。白子の商店街にデカデカとそれを説明した看板があります。

また、その説に登場する小川孫三のご子孫がやられている小川眼科の前にも石碑が!!
面白いですね〜

藤枝宿周辺の寺・神社

神社仏閣の多い藤枝市ですが、藤枝宿周辺にも多くの神社仏閣が存在します。

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この記事を書いた人

藤枝市地域おこし協力隊、俳優。東京で20年以上の俳優活動を経て、2023年に藤枝市に移住。現在も劇団ユニークポイントで俳優として活動。藤枝市の観光・歴史、文化芸術などの情報を発信しています。

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